2026.03
江隆基の日本再访
明治大学史资料センター運営委員
叁田刚史(商学部教授)
『日中教育学の交流—中国教育研究会报、江隆基先生歓迎记念集号—』(中国教育研究会、1964年4月)には、江隆基の日本における讲演记録や、日本での交流活动の记録がまとめられている。同书の内容から江隆基访日の主な日程を以下に再现してみる。
11月30日 本郷学士会馆で関东地区歓迎委员会主催集会
12月3日 东京大学で日本教育学会有志など主催集会
12月4日 法政大学で讲演「プロレタリア阶级の政治に奉仕し生产労働と结合する教育方针」
12月5日 早稲田大学で讲演「新中国高等教育の改革と成长」
12月6日 横浜地区访问
12月7日 神保町麵业会馆で中国教育研究会?ソビエト教育研究会とのシンポジウム
12月8日 工学院大学で讲演
12月9日 静冈大学で交流
12月10日 名古屋大学で歓迎集会
12月11日 名古屋大学で教育学研究者との交流
12月12日 京都ミヤコホテルで歓迎晩餐会
12月13日 京都教育学会の歓迎会、滋贺での教育集会で讲演
12月14日 奈良観光
12月15日 立命馆大学で歓迎集会、讲演「中国の教育について」
12月16日 天竜寺で関西教育界代表者らと集中研究会
12月17日 和歌山で民间団体などと恳谈、道顿堀文楽座で人形浄瑠璃鑑赏
12月18日 大阪大手前会馆で大众集会、讲演「中国の道徳教育について」
12月19日 神戸大学で教育関係者と意见交换
12月20日 広岛へ移动(この间详细不明)
12月24日 九州大学で学术交流会教育学分科会、飞行机で东京へ移动
12月25日 日教组中央委员会と交流
同书の记録からは、明治大学访问や明治大学の教员、学生との交流は确认できなかった。中国学术代表団と江隆基の访日と日本での交流については、同书の他にも日本国内の教育学関係誌などに记事があるとされる。
同书冒头には早稲田大学での讲演録が収録されている。江隆基は同讲演で、半殖民地的?半封建的であった中国の高等教育は、「経済的にも文化的にも遅れている(一穷二白)」中国社会の状况をあらためるため、人民共和国成立后に毛沢东の指导のもと「赤い専门家」を养成すべく改革が进められ、「教育と生产労働を结合する」ものとなり、「百花斉放、百家争鸣」の方针のもと教育と学术の水準向上が进められていること、などを述べた。江隆基にとって24年ぶりの日本の印象は、女子教育の発展と各大学での女子学生の増加、町中の看板に英语が多く新闻にも外来语が多いこと、交通机関の発达と自动车の氾滥の3点にまとめられている(新岛淳良「江隆基さんという人」同书、79页)。
ただ、62年后の今日から见ると、访日中の江隆基は语らなかったことがあまりにも多いのではないか。1957年からの反右派闘争が中国の大学に何をもたらしたのか、北京大学学长の马寅初はなぜ失脚させられ自身はなぜ兰州大学に异动させられたのか、翻訳に际して削除されたのでなければ、早稲田大学での讲演ではまったく言及されていない。また同书を読む限り、2年间の日本留学中のことについても、明治大学に在籍したということと下宿した大冈山と中野の地名以外、访日中に江隆基はほとんど何も述べなかったらしい。新岛淳良は前掲记事で江隆基が日本留学について语ったことを次のようにまとめている。
「日本时代の江さんの思い出は漠としている。たとえば、だれか日本人の友人はいませんでしたかときいてもおぼえていない、といい、明治の先生でだれか印象に残っていませんか、ときいても一人も思いだせないという。」(同前、75页)
「日本时代の江さんの思い出は漠としている。たとえば、だれか日本人の友人はいませんでしたかときいてもおぼえていない、といい、明治の先生でだれか印象に残っていませんか、ときいても一人も思いだせないという。」(同前、75页)
日本再访で日本の学术界と教育界から歓迎を受けた江隆基が、文化大革命の迫害を受けて絶命するのは、この访日から2年半后、1966年6月25日のことである。

