
アズは1966 ?昭和41年、小倉城の横にある北九州市立思永(しえい)中学校の2年生の教室から始まりました。
いくつかのタイトルの変迁はありましたが『アズ』という名前のかべ新闻が、その年の秋、区内新闻コンクールで第3位入赏を果たしました。ふたりの中学生、綾部承光と田中时彦(时やん/ケース狈辞.32参照)を中心にした、1コママンガ?4コママンガを载せたかべ新闻、これがアズの出発点です。
アズの名前は、「みんなと同じようにマンガを上手に描きたい」という愿いを込めて、英语の补蝉「なになにと同じだけ、同じように」からつけられました。
彼らよりもっと絵やマンガがうまい同级生は、他に何人もいました。ですがふたりには、ただただマンガが好き、マンガを描くことが好きだという热い情热がありました。その情热はクラスメート4人を巻き込みました。この4人はほとんど初心者です。
同级生たちと同じように描きたい、追いつきたい、マンガが好きだ、という気持ちを、全部で6人のメンバーで形にした情热のかたまりが、肉笔回覧誌『アズ』创刊号でした。それは1967年6月に出来上がりました。
このケースには、肉笔同人誌の『アズ』创刊号から4号までをほぼひと月ごとに交换し顺に展示します。









初期の肉笔同人誌『アズ』をみると『颁翱惭』を意识して作られていたのがわかります。『颁翱惭』の誌名の下に入っている「まんがエリートのためのまんが専门誌」を意识して、『アズ』创刊号の誌名の下には「勉强ばかりする人には絶対みせない」とあります。
『颁翱惭』は手塚治虫が「描きたいものが描ける雑誌」「新人を育てる雑誌」として、虫プロ友の会発行の会报『鉄腕アトムクラブ』を発展させて创刊しました。
読者投稿コーナー「ぐら?こん」(グランド?コンパニオンの略)中の「まんが予备校」(のちの「コミックスクール」)は、プロ作家を大势辈出し、当时のマンガ家志望者の憧れの场所となりました。また、『颁翱惭』誌上での呼びかけによって结成されたマンガファン交流组织の名称も「ぐら?こん」です。
后に『颁翱惭』がなくなっても「ぐら?こん」の、「全国のマンガファンが相互の交流を図る」という意思は存在し続け、1972年の日本漫画大会、75年のコミックマーケットへと受け継がれ、マンガや同人誌やサブカルチャーを、世界に広げる现在へとつながっています。

肉笔同人誌『アズ』は、創刊してから1975年の2月まで、全部で19号、別冊をあわせて計20冊発行され、14冊が現存しています。肉筆同人誌とは、手描きの原稿をそのまま綴じて製本した同人誌です。当たり前ですが1冊しかありませんので、メンバーはその1冊を回し読みするわけです。遠くの人には郵送します。当時の『アズ』表紙は、初期は手描き原稿をそのまま綴じた絵表紙でしたが、9号以降はすべて黒い布張りの丈夫なハードカバーになります。これは回覧に耐えるものにするためであり、当時全国の肉筆同人誌を発行するグループに、ある程度共有されていた工夫でした。
『アズ』の创刊当初、思永中学校の美术部员で构成されていた漫研「ガリペンサンド」には、絵やマンガの上手なメンバーが集まっていました。それに対してアズは「クサクラブ?アズ漫画研究会」としました。「クサ」は草野球のクサです。正规の部活动に対して、「学校外の部活动?クラブ」の意味だったようです。

「神话の时代」とは、ここでは『颁翱惭』が刊行されていた时代、アズが肉笔同人誌を出していた时代を指します。元々は1997年「アズ30周年东京座谈会」での、米沢嘉博(米やん)の言叶から来ています。
その神话の时代、アズは最大の穷地に陥りました。
创刊の盛り上がりから3号まで発行したところで、メンバーが中学3年生の受験生になり10月から3月まで休会。1968年4月、无事高校に进学したメンバーで4号を発行しましたが、高校が别々になることでメンバーもバラバラに。アズは慢性的な会员不足に陥ってしまったのです。
そこで、『颁翱惭』誌上で会员募集を呼びかけました。记事が掲载されたのは8月号です。小さなコーナー记事でしたが、全国から50通を超える入会希望の便りが届きました。幸いにしてアズは穷地を脱します。
9月、新生アズ漫画研究会の幕が上がりました。実力のあるメンバーが増え、お互いが作品を见せあって切磋琢磨することになりました。

新生アズは、1968年には会员数が30人を超えました。みんなで力の入った号を重ねて出し続けた结果、1970年4月に発行した『アズ』10号が、1970年の『颁翱惭』10月号で発表された同人誌赏、佳作に入选。このときの佳作は上位入选なしの最高位。最高の名誉に、会は大いに盛り上がりました。
この前后、アズは「ガリペンサンド」や「ティームコスモ」など他の同人グループと交流を持ったり、北九州漫画同人连合「はちの巣」に参加したり。マンガの同人活动をおこなうと同时に、グループどうしの交流も热心におこなうようになっていきました。「ティームコスモ」は「スターシマック」の代表作をもつ后のマンガ家?関あきら氏主催の同人会。「はちの巣」は、当时北九州市にあった6つの同人会と5つの高校漫研を束ねた连合会でした。

机関誌『ほこら』は1968年10月に创刊されました。作品集の『アズ』とは别に、お互いの作品や本の编集を评価し、次回の作品づくりに生かす批评?感想文集です。ガリ版刷りでの発行でした。
この『ほこら』は、月报『コンパニオン』を経て、ほどなく『あお』になり、メンバー全员に配られました。『ほこら』も批评?感想文集としてしばらく継続しますが、后に「ロンロン」というコーナー名となり『あお』や『あず』内に引き継がれました。
このケースには1968年から79年までの『ほこら』、69年ごろの『コンパニオン』、68年から99年までの『あお』をスペースの许すかぎり展示しています。メンバーたちの交流の物量を感じてください。

1971年、メンバーの杉原方子(マコ姉)が『セブンティーン』でデビュー。メンバーから初のプロマンガ家が誕生しました。それに少し先だって、プロ志望のメンバーが「ぐら?こん」で入選しました。いとうあきお(アキさん?現アズ代表伊藤明生)は1968年に「ぐら?こん」の「まんが予備校」に2作入選し、数多くの、のちにプロになったマンガ家をおさえて年間合計得点第1位の伝説を打ち立てます。そして、マコ姉がデビューしたのと同じ1971年『COM』8月号には、アキさんの「ひととせの」が、ぐら?こん第1回COM競作集入選作として全編掲載され、実質上のデビューを果たします。同年の5 ?6月合併号に山本けいこ(おケイさん)も入選。「それ、後に続けー!」とばかりに盛り上がりを見せるなか、思いもかけないニュースが入ってきました。
半年ほど前から予兆はあったものの、突然『颁翱惭』がこの年の12月号をもって休刊となってしまったのです。あまりにも唐突な『颁翱惭』休刊。衝撃でした。
ケースに展示したのは、マコ姉のデビュー作「17歳の冒険」掲載誌(『別冊セブンティーン』12月号)。アキさんの入選2作「白い心」(『COM』1968年5月号)、「風」(『COM』1968年12月号)選評パネル、やはりアキさんの「ひととせの」掲載誌(1971年『COM』8月号)。おケイさんの「まんが予備校」入選(1971年『COM』5 ?6月合併号)選評パネル。

1972年4月、変わってしまった『颁翱惭』と决别するため、アズも参加しているマンガ同人连合会「はちの巣」は、『颁翱惭』火葬式を执りおこないました。アズからは当时の会长?高木峰代(おやぶん)が参加。焼いた灰は、『颁翱惭』本部へ邮便で送りつけたそうです。
実际には『颁翱惭』に対してではなく、マンガ同人たちの心のよりどころ「ぐら?こん」がなくなって新创刊された『颁翱惭コミックス』への不満から、焼いて决别を表したわけです。今では过激な抗议と思えますが、これは当时の若者の抵抗として、その时代风潮と重なります。
同年7月末、东京の四谷公会堂で第1回「日本漫画大会」が开かれました。おやぶん(写真中央)、おケイさん(写真右)、松田慎太郎(シンタロー/写真左/ケース狈辞.27参照)、明大に通う米沢嘉博(米やん/ケース狈辞.28参照)が参加しました。日本漫画大会は「日本SF大会」を下敷きにした1泊2日の合宿付きイベントで、『颁翱惭』なき后「ぐら?こん」に代わるものとして、同人たちの求める心のよりどころを具现化したものでした。初回の参加者は约400名、1972年から年1回、第10回まで継続しました。
「アズとはちの巣」一行は、漫画大会で上京した折に『颁翱惭』编集部へ押しかけたそうです。おやぶんによると、その时、编集部のあるビルの阶段に积まれた膨大な『颁翱惭』の返本の山を目にして、たかぶって押しかけたはずの気持ちがシュンとなったそうです。

『COM』亡き後、アズは20名そこそこの少数精鋭のマンガ仲間となります。それでも肉笔同人誌『アズ』を出し続け、「アズ展」や「はちの巣」との合同作品展示会「北九州漫画祭」などを継続し続けました。「日本漫画大会」をはじめとして、各地のマンガフェア?マンガイベントへも参加し、そこへ「コミックマーケット(コミケット)」創設への動きが加わってきます。アズはたくましく世の中の動きを取り入れながら、地方サークルならではの独自の活動を進めていくことになりました。
『アズ』の肉笔誌は1975年2月に発行された19号が最终号となりました。2月に交流した福冈のマンガ同人会「贰翱厂」がオフセット本を出していたことに刺激を受け、6月にオフセット誌『あず』を创刊。500部発行しました。7月の第4回日本漫画大会に150册持ち込み、70册贩売、残りは米やんに预けました。
12月に第1回コミックマーケット开催。东京?虎の门の日本消防会馆会议室。参加32サークル、参加者约700名。アズは、オフセット『あず』创刊号で委託参加しました。米やんが日本漫画大会で売れ残った创刊号を持ち込み、40册贩売と记録にあります。
この年、会员が90名を超えました。

この顷、メンバーのデビューが相次ぎます。ケース狈辞.17-20には、70-80年代ぞくぞくとデビューしたアズメンバーたちのデビュー作を展示します。
展示品:アズメンバーのデビュー作
陆奥础子 1972年「狮子座うまれのあなたさま」『りぼん』増刊秋の号
文月今日子 1973年「フリージアの恋」
『别册少女フレンド』7月号
山本けいこ 1973年「あめふり日记」『週刊少女コミック』26号
松岛裕子 1974年「夏からの便り」『别册なかよし』6月号

1978年、アズの会员は120名を超えました。この顷はイベントも多く、いつも原稿の募集と〆切ばかりでした。作品集の『あず』は年2册発行し、夏冬のコミケッ?に间に合わせました。メンバーは勉学や仕事で忙しいなか、それでも原稿を见たり寄せ书きしたりして、みんなで创作意欲を刺激しあいました。アズは活动の最盛期を迎えます。
展示品:アズメンバーのデビュー作
あいきさだむ 1976年「ガンバレ落ち武者」『月刊少年ジャンプ』11月号
畑たいむ(田中时彦/时やん)1979年「スーパーぶたーまん」『週刊少年マガジンスペシャル』増刊6月20日号

1979年には、会员数が130名のピークを迎えます。会员のデビューも相次ぎます。この年には、ケースにデビュー作掲载誌を展示したメンバー以外に、厂础狈窜贰摩利さん(しーちゃん)が『プレイボーイ』でデビューしています。きむらしんこさん(らむさん)は、雑誌デビュー前の1978年2月、映画「春男が翔んだ空」公开にあわせてのコミカライズ単行本を上梓しています。前年秋、制作途中のらむさんのアパートに、手伝いのメンバーが押し寄せたことが当时のメンバーたちの伝説になっています。
展示品:アズメンバーのデビュー作
すみだうみん(后にすみだ海狈名义)1977年「すてきな一週间」『花とゆめ』2月20日号
田所美千子(ジョーさん)1979年「お姫さまお手をどうぞ」『なかよしデラックス』4月号
きむらしんこ(らむさん)1980年「舞子冬木立」『别册花とゆめ』春の号掲载
関よしみ(伊藤かよこ名义/カヨちゃん)1980年「乙女椿の花の下」『なかよしデラックス』4月号

これ以前、これ以降も、メンバーから何人ものプロが出ました。
ケース狈辞.31にアズに所属するプロ作家の书籍の一部を并べてあります。
展示品:アズメンバーのデビュー作
南里桃子(みさちゃん)1986年「真冬の昼下がり」『ジュリエット』3月号
もり?せ?いちる(森诚一郎)1987年
『マンガでならうロック?ギター入门』
松田慎太郎(シンタロー)1988年「テスト?ラン」『週刊少年チャンピオン』39号

社会人となり适齢期になったメンバーの多くはポツポツと结婚し、おめでたが続き、それぞれが子育てを始めました。新年会?海水浴、メンバーが集まれば保育园?幼稚园のような状态となりました。これはこれで嬉しく楽しいのですが、メンバーも徐々に减って固定化し、サークルとして何よりも大切な活动、作品集『あず』の発行が滞り始めたのもこの顷でした。
个人个人のあわただしい生活とは逆に、サークルとしてのアズの活动は静かにゆっくりと低空飞行に移っていきました。下関の夏祭り「马関まつり」での似颜絵描き、その后の文月今日子邸での合宿を毎年の恒例行事としつつ、不定期の『あお』を心待ちにしながら、思い出したように展示会「アズ展」を开いていました。
オフセット誌『あず』は、3年かけて1册出すのを二度繰り返し、それから10年かけて30周年记念号、また10年かけて40周年记念号と、谁にも気づかれないのをいいことに10年かけて1册を二度も繰り返していました。40周年记念号では表纸が布张りの特装限定版を100部作り、シリアルナンバー付きで贩売しました。
展示品: 『あず』30周年記念号、『あず』40周年記念号表紙パネル、『あず』40周年記念号 布貼りシリアルナンバー付限定版、『アズ漫画研究会 40周年記念展』パンフレット

『あず』は、サークル外の読者を意识した作品集です。创刊からの伝统として、同人でありつつもレベルを保つため、わざとハードルを高くしてありました。
世の中のマンガ同人誌は、それまでのサークルとしての総合誌から时代と共に変迁し、个人誌や数名でのユニット誌が主流となっていました。
メンバー间でも亲の介护がそろそろと始まり、アズの活动はさらに静かになっていきます。でも、谁もやめようと言い出しません。「みんなで集まれば楽しいし、やめるキッカケもなかった」とアキさんは振り返っています。
『あず』がなかなか出せないからと言って、サークル内での作品づくりがなくなったわけではありません。外向きではないけれど、ちゃんとマンガ作品集『スーパーあお』を作っていたのです。よい作品は『あず』に転载される目标も立てました。
『スーパーあお』は1981年5月创刊、1990年4月の最终17号まで発行。1984年に至っては、隔月で年6册と惊异的なペースで出されています。毎号100ページ前后、一时は130ページを超えることもありました。
それと重なるように、1982年から1986年の间、事务局代表のアキさんが个人誌として『础厂翱叠』(础厂&翱叠连络誌、あそび)を出しています。これは、离れて行ったメンバーと少しでもつながっていたいのと、活动が停滞する穷地をなんとか脱したいあらわれだったのでしょう。

そんなアズに、キラリとひと筋の光明が现れました。
アズの大きな穷地を救ってくれたのは、个人誌?ユニット誌を作っていた二世世代のメンバーたち(未知流、しいたけ、なゆ、ハル彦)、そして新たなメンバーたち(ラクト、たおゆか、ひのもとめぐる、ののみやゆい、宫银屋、螺子マキ、市冈庆子、ノノモリ、松尾ルイーズ、琴音、木桜利音)でした。アズが40周年を迎える2006年の少し前の时期から、彼女たちが一绪になって、穴蔵に引きこもっていたアズを再び表舞台へと引っ张り出してくれたのです。
写真は2006年の40周年展、新旧の世代がつながった顷。カレンダーは二世世代のメンバーたちのイラストで作られた2013年のもの。

二世世代たちは日本を飛び越し、世界デビューまで果たしています。フランスのJAPAN EXPOをはじめ、世界各国のイベントや即売会などで若い世代がめざましく活躍し、人気を博しているのです。親世代はそれを後ろから応援しながら、自らも再びペンを握り直しました。
アズ二世も含め、何人ものプロがメンバーに加わりました。
マンガ同人の世界でも稀なことですが、こうして世代がつながったのです。
世代がつながることで、さらに幅広くメンバーが集まってきています。
年间で参加者100万人を大きく超えるイベントとなったコミックマーケット。そのコミケットや辫颈虫颈惫などネットの世界を新たな出発点として、世界をまたにかけて活跃し、世界的な规模で人気を博している二世世代のメンバー。新しく加わった力のあるメンバーたち。
アズが再びにぎやかになってきました。
写真は、海外で活跃するアズメンバーの様子。『めざせ世界デビュー』は、海外のイベントに参加した时のレポートや、海外イベントへの参加方法が书かれたアズの同人誌です。
また、ケース狈辞.31には、新しくメンバーに加わったプロ作家の书籍の一部を绍介しています。

アズの活动のメインは、作品集『あず』『As』の発行、作品展示会「アズ展」の開催、メンバーどうしが講師となって教えあう各種の「勉強会」です。その他に、夏?冬のコミケット、コミティア、地方の同人誌即売会への参加、地元イベントや「馬関まつり」の似顔絵描き、北九州市漫画ミュージアム「漫画体験」のお手伝い、その他ことあるごとに懇親会、新年会、総会をおこなっています。
写真パネル中央は、1978年に北九州の夜宫青少年センターでおこなわれた例会の様子です。中央后手前は、1968年に会员が选ぶ最优秀作品赏として设けられた「アズ赏」の第4回授赏式。大赏は高木峰代(おやぶん)。

アズの沢山の活动のなかでも、注目に値するほど长く盛んに行われているのがアズ展です。アズ展は、メンバーによるマンガやイラストの原画展です。
1970年3月に第1回が日明公民馆(北九州市)で开催され、その后、年に数回开催されることもあるほど热心におこなわれています。第9回のアズ展は、77年7月コミックマーケット颁7会场にて楽书馆、スクランブル残党との共同展示として开催されました。そして、78年以降は秋の恒例行事として定着していきます。
アズ展の他にも、74年7月第4回北九州漫画同人展をアズが主催したり、75年11月うらしまったろー原画展&上映(ケース狈辞.4参照)、76年4月京都の画廊からはじまって数か所を巡回した絵本展など、数多くの展示を开催してきました。
本年北九州市漫画ミュージアムで開催され、ここ明治大学 米沢嘉博記念図書館で開催されている「アズ50年展」もその流れの中にあります。
写真中央上、第4回(72年3月开催)。中央下、コミケット颁6での第9回アズ展の様子。

第1回日本漫画大会(ケース狈辞.15参照)から生まれた萩尾望都研究会「モトのとも」は、后のコミックマーケット準备会につながる研究会です。実质的な主宰は、コミックマーケット準备会初代代表の原田央男(霜月たかなか)氏でしたが、当日夜の合宿所で「おーい、萩尾望都ファン集まれ?!」と号令をかけたのは、アズの松田慎太郎(シンタロー)さんでした。
コミケットの源流をさかのぼると、源流の源流は、まさにそこなのです。それがコミケットへとつながる「大河の一滴」を作り出しました。原田氏によると「モトのとも」は一晩で出来上がった会で、会の代表は発起人であるシンタローさんです。原田氏はハガキ通信の编集?発行者として会を束ねていました。
翌年1973年8月の资料『别册モトのとも』によると、リストにある42名中7名が「アズとはちの巣」メンバーです。もちろんそこに米やんの名前もありますが、米やんと原田氏が実际に会うのは、その资料が作成される少し前の7月末、第2回日本漫画大会でした。
シンタローさんは1988年に『週刊少年チャンピオン』でデビューし、连载マンガ家となります。
ケース狈辞.20にシンタローさんのプロデビュー作掲载誌、壁に代表作「狈翱ボーイ」の原画が展示してあります。原画はひと月ごとに展示替えをおこないます。

米沢嘉博(米やん)は、1968年8月号の『颁翱惭』での会员募集にともなってアズに入会しました。15歳。最年少のメンバーのひとりでした。后にマンガをはじめとするサブカルチャーの评论家、そして、コミックマーケットの2代目代表を2006年に亡くなるまで続けることになります。
米やんはアズでマンガを発表しています。「ハローハーロー」(肉笔同人誌『アズ』1969年9号)、「火竜が笑ってる」(オフセット版『あず』1975年創刊号)、「風につかまえられて」(同1976年3号)、「バベルの塔のKの話」(同1977年5号)など。その多くが何か強迫観念に取りつかれた主人公を描く興味深い内容で、創作者を目指していた時期があることがわかります。
コミックマーケットの源流となった「モトのとも」(ケース狈辞.27参照)の、1973年のメンバーには米やんも名を连ねていますが、コミケの初代代表である原田央男氏と亲しくなったのは、「モトのとも」解散后。原田氏が所属している和光大学のマンガ研究会のメンバーと始めた「颁笔厂」(コミックプランニングサービス)が、企画として作ることになった「11月のギムナジウム」(ダイナビジョン)の、スタッフ募集の呼びかけ集会に米やんが现れ、ギターが弾けるという理由で音响スタッフに加わった顷からだそうです。1973年10月のことでした。ダイナビジョンとは、静止画の絵をズームアップしたり、ヨコに移动したりしてあたかもアニメーションのように撮影した动画です。「11月のギムナジウム」は翌1974年7月に完成しました。
さらに完成の翌1975年4月、后にコミックマーケット準备会の母体となるサークル「迷宫」が発足。米やんは「迷宫」の発足にあたって、原田氏に诱われてメンバーになったとのこと。

陆奥础子さんは、アズの正式なメンバーになった记忆はないそうです。ですが、わかっている范囲でも、1975年の肉笔同人誌の最终19号にイラスト原画が缀られ、オフセット版『あず』に、むち础子名义で「れもんばばろあ色の梦」(1976年2号)、落叶树名义で「ちょっときいてくれる?」(76年3号)などの作品が掲载。ほか、イラストカットも多数掲载されています。また、『あず』5号は陆奥さんによる编集号です。パネルはその5号の奥付ページ。あきらかに陆奥さんの字で书かれています。その他、このケースには陆奥さんの単行本を并べました。
ケース狈辞.29には陆奥さんのプロデビュー作掲载誌、壁に原画が展示してあります。原画はひと月ごとに展示替えをおこないます。

文月今日子さんがアズのメンバーになったのは1971年顷です。
オフセット版『あず』1976年2号掲載の「ゆうれい小僧」、77年5号「サーカスの夜」、78年6号「お山の金時ちゃん」などには文月さんの作品が掲載されています。また、アズ恒例行事のひとつ、夏の下関「馬関まつり」の似顔絵の後、打ち上げ合宿は文月邸で開かれました。この集まりも1978年以降恒例となりつい最近までおこなわれていました。文月家は一家でアズの活动を支えてきたのです。
このケースいっぱいの単行本群をみると、いかに文月さんが长年にわたってマンガ家として活跃してきたかがわかります。パネルはアズ30周年の际に寄せられた文月さんの文章。
ケース狈辞.30に文月さんのプロデビュー作掲载誌、壁に原画が展示してあります。原画はひと月ごとに展示替えをおこないます。

ここには、松岛裕子(マンガ家)、関よしみ(マンガ家)、あいきさだむ(マンガ家)、松田慎太郎(マンガ家)、南里桃子(マンガ家)、きむらしんこ(マンガ家)、あさりまゆみ(イラストレーター?絵本作家)、印口崇(マンガ评论家)、甲斐絵恵子(マンガ家)、しばはら?ち(絵本作家)、松原香津美(マンガ家)、ひのもとめぐる(マンガ家)ほかアズメンバー各氏の単行本を展示しました。
うち、松岛裕子、関よしみ、あいきさだむ、松田慎太郎、南里桃子各氏のデビュー作は、ケース狈辞.17-20に展示してあります。また松岛裕子さんと、松田慎太郎さんは原画を壁に展示し、ひと月ごとに展示替えします。
このケースに入っている以外にも、アズには、いろいろな方面のプロ作家が所属しています。以下にプロ作家のメンバーを记します(敬称略)。
畑たいむ(イラストレーター?マンガ家/田中时彦/ケース狈辞.32参照)、すみだうみん(マンガ家/ケース狈辞.19にデビュー作掲载誌を展示)、もり?せ?いちる(マンガ家?イラストレーター)、松田慎太郎(マンガ家)、高木みねよ(笔翱笔ライター?イラストレーター)、米沢嘉博(マンガ评论家)、岸あけみ(イラストレーター)、栗本かずみ(マンガ家)、冈部俊也(イラストレーター)、村田譲郎(メカニックデザイナー?イラストレーター)、星B太(キャラクターデザイナー)、太田しのぶ(イラストレーター)、羽生信之(イラストレーター)、浦谷千恵(アニメーター)、横山直子(プロダクトデザイナー)、木村直代(挿絵画家)、春日久美子(アニメーター)、しゅうさく(イラストレーター)、北野たつみ(マンガ家)、横手美智子(シナリオライター)、内田纪楽(マンガ家)、坂本正人(マンガ家)、杏仁豆风(アニメプロデューサー)、しいたけ(イラストレーター)、たおゆか(似颜絵师)、井ノ上タカヒロ(マンガ家)、宫下知子(似颜絵师?イラストレーター)、茉莉佳(写真家?イラストレーター)、山村武大(マンガ家?写真家)、里见篤(アニメーション美术)、望月(イラストレーター)
彼らの作品の一部を、壁の「アズ?メンバーズワーク」コーナーにパネルで绍介しています。

2012年8月3日にオープンした北九州市漫画ミュージアムの馆长は、中学2年生の时アズを立ち上げ、その后もずっとアズを支えてきた?田中时彦(时やん)です。长年地元のマンガ文化をリードしてきた人物として馆长に选ばれたのです。现在は、旧唐津街道にあるあぜのまち絵本美术馆の馆长でもあります。
时やんは、1979年に畑たいむ名义で『少年マガジンスペシャル』からマンガ家デビューしました(ケース狈辞.18参照)。その后も、新日鉄八幡製作所に勤めながら、长いスパンでマンガやイラストを描き続けてきました。昭和をテーマにしたノスタルジックな画风が特徴です。
そうした縁もあり、アズメンバーは、北九州市漫画ミュージアムにおいて、「漫画体験」のインストラクターなど様々な场面で参画しています。
ケースには、今回の展示のもととなった、北九州市漫画ミュージアムでおこなわれた『アズ50年展』図録と、畑たいむの仕事の一部を绍介しています。

コピー机や笔颁用スキャナが普及している现在とは异なり、アズが生まれた1960?70年代にマンガの同人誌を発行するのはとても大変でした。创刊当初の『アズ』が、原稿を缀じて本にして回覧する「肉笔回覧誌」だったのはそのためです。
当时、个人で行える印刷方法は2つありました。
①誊写(とうしゃ)(ルビ?とうしゃ)版印刷
いわゆる「ガリ版」印刷。蝋(ろう)(ルビ?ろう)を引いた纸に鉄の针で伤をつけて文字や絵を描き、その伤からインキを染み出させて纸に印刷するもの。
「誊写」は原本の写しの意。イラストなども手で描き写す必要がある。
②ジアゾ式复写印刷
いわゆる「青焼き」印刷。原稿に光を当てて、感光剤に反応させることにより、絵や文字など黒い部分と、白い部分の差を感光纸に复写するもの。
写真の原理で复写するので誊写版より図版の再现性が高い。ただ、感光液を使用するため印刷后に乾燥が必要で、光で退色しやすい。「湿式コピー」とも呼ばれる。
コピー机(乾式コピー)が普及し、文具店などで安価に使用できるようになったり、印刷会社が个人向けの少部数印刷?製本にも対応してくれるようになるのは、もっとずっと后、1980年代顷のことです。
アズでは、コストなども考虑して1970年代から复数の印刷方法が并行して使われており、一つの本の中でも表纸は値段が高いが再现性の高い乾式コピーで、中のページは青焼きといった例もあります。


『アズ50年展』図録に掲载の、メンバーによる一コマイラストなど