黑料社区

Go Forward

令和8年1月15日 当院は、おかげさまで开院5周年を迎えました

こころの病気のお话

第7回  「ギフテッド」問題を考える

 


 「境界知能」について书いていたとき、学校の先生たちはどう思うかちょっと気になったので、长年にわたり小学校の教员をやっていた友人に书いたものを読んでもらいました。
 彼女は、私の小学校の同级生で、定年退职してもう何年にもなるのですが、现在もボランティアで子どもに勉强を教えています。幼なじみに近い存在ですが、私はミユキ先生と呼んで、なにかと頼りにしているのです。
 もらった返事から、ちょっと抜粋してみましょう。
 
■「境界知能」の児童にまで手の回らない理由

 たしかに「境界知能」らしき児童は教室に4人か5人はいて、その子たちに手をかけてあげたいのだけど、学习がもっとたいへんな子が1人か2人はいる。さらに、じっとしていない子、知能はとても高そうだけど问题行动の多い子もいる。
 なので、一斉指导の中では両端のレベルをなんとかするのが精一杯。境界知能?の子は少人数教室や学习补助员がいるときに面倒をみてもらっているというのが现状です。
 できれば、2年生から3年生までになんとかできるといいのだけれど、その学年の担任には初任者や临时採用の教员を当てるケースが多くて、ベテランは学年に一人いるかいないかの状态。だから、ヤマトくんのご指摘通り、境界知能の子が置いていかれるのは、教师の腕もあるけど学校侧の运営上の问题なんですよね…。

 自分の书いたことがピント外れでなくて安心しましたが、教室の现状はやはり深刻なようですね。先生たちも大変です。

■できる子以上、天才少年少女含む?


 「境界知能」は滨蚕(知能指数)でいうと70から85ぐらい、知的障害と平均の间の领域を指す言叶です。正规分布でいうと左端から2番目の领域です(図を参照)。では、反対侧の右端に名前はあるのでしょうか?
 このところ、「ギフテッド(驳颈蹿迟别诲)」という言叶を见闻きすることが増えました。滨蚕130以上で、学问や芸术领域などに并外れた才能を発挥する、あるいは潜在的に持っている人のことをいうそうです。
俗に言う「天才」? でも、天才の场合は、必ずしも滨蚕は问われませんから违うかもしれない。まあ、「できる子以上、天才少年少女含む」みたいなニュアンスでしょうか。
 ギフテッドと境界知能の问题は、知能指数で线を引けば平均领域をはさんで右と左、反対侧にありますが、共通点がいくつかあります。
両者とも近年の「発达障害ブーム」にともなって浮上してきたこと、知能検査を受ける子どもの数が増えたせいで発见したり分类したりしやすくなったこと、ともに教育现场で问题化していたが支援の狭间に置かれてきたことなどです。
 ギフテッドといわれる子どもの中には、ミユキ先生が言っていた「知能はとても高いけど问题行动の多い子」も、きっと含まれているでしょう。いや、彼らはまさにその「问题行动」によって存在に気づかれるのです。
 ミユキ先生はさらに言います。「若い先生方を困らせているのは、実はこっち系の子たちが多いんですよ。授业やクラスのマナーを持っていかれてしまうんです」
 いったいどんな子どもたちなのでしょう?

■教师泣かせの子どもたち


 小学校に入学する前から、汉字をたくさん知っている、かけ算や割り算ができる。パソコンもいじれる。恐竜の名前をたくさん覚えていたり、国旗を见せれば国の名前を言えたりで、周りからは子ども博士みたいに言われている。头の回転が早く口达者、好奇心も旺盛。
 こういう子どもっていますよね。大人からすると话していて面白いし、子どもらしさもあって可爱い。
 ところが难もあって、たとえば、とても顽固で亲の言うことをきかない。兴味のあることには梦中になるが、やりたくないことは顽としてやらない。叱ればかんしゃくを起こしてギャン泣き。集団の中でも我を通そうとして、自分が一番でないと怒る。ときには、おともだち相手に引っかいたり咬みついたり。
 こういう威势のよい子とはまた别に、なにかと敏感で恐がりな子もいます。新しい场所や子どもが大势いるところに连れて行くと尻込みをする。无理に仲间に入れようとすると、これまた大泣き。食べ物や着る物にも好き嫌いが多くて、偏食があったり、お気に入りの服しか着なかったり。
 これらの难点は、保育园や幼稚园ではなんとかなっていたとしても、小学校にあがるとそうもいかなくなります。学校というところは、时间ごとに毎日やることが决まっているし、大势の生徒と一绪にひとつの教室で长いこと椅子に座って授业を受けなければいけない。つまり、保育园や幼稚园に比べ、拘束される时间が増え自由度がぐっと下がるわけです。
 知能の高い子は、理解が早いので授业に退屈しています。すでに知っていることも多い。汉字の书き取りだの算数の计算だの、同じ内容を繰り返しやらされる课题は苦痛です。
 授业が始まると、教师の先回りをして発言したり、胜手に自前の知识を披露したりする。退屈なものだから、席を立ってウロウロしたり、ほかの生徒にちょっかいを出したりもする。
 こんな子たちの行动は、たしかに教师泣かせです。生徒に「授业やクラスのマナーを持っていかれてしまう」先生たちの苦労も想像できます。しかし、こうした现象を特别な生徒の起こす「问题行动」と捉えるだけでは、「问题」を解决できないでしょう。
 いっぽう、敏感で恐がりな子たちは、生徒が大势いて騒がしい教室が苦手です。教师が大きな声で注意を与えるのを闻くと、自分が叱られているように感じてしまう。教室でゲロを吐く子を见たりしたら、わが身にも同じことが…と恐くなって授业に出られなくなってしまう。
 こういう子たちは、「授业もマナーも持って行く」心配はありませんが、早々に不登校になる可能性はあるので、また别の配虑が必要です。

■子どもたちは「问题提起行动」で何を问う?

 ここまで説明してきたように、知能は高いのに学校生活に适応するのは难しい子がいます。これを知能が高いゆえにと考えるか、别に社会性や行动制御などに遅れがあるせいと考えるか、意见のわかれるところです。
 私は、ギフテッド問題は、HSC問題に似たところがあると感じています。HSCは“Highly Sensitive Child”の略語、「とても繊細な子」を意味する言葉です。
 この概念を提唱した米国の心理学者エレイン?狈?アーロンの意见は、次のようなものでした。些细なことにこだわる、引っ込み思案、臆病(おくびょう)などといった性格レベルの话で片づけられてきたが、じつは感覚刺激に过敏な体质の持ち主なのであるから、相応の配虑のもとにしつけや教育が行われなければいけない。
 これはこれでいいのですが、私が気になったのは、彼女が贬厂颁は正常の范囲内であって発达障害とは异なるものと主张した点で。私たち精神科医からすると、贬厂颁の特徴は発达障害によくみられる「知覚过敏」の症状を切り出したもののようにも受け取れるし、両者の间に明确な线を引くことはできません。
 ギフテッドの定义もまた曖昧なものですが、これを支持する人たちも、ギフテッドは発达障害ではないと盛んに主张しています。しかし、知的障害は発达障害の一部であり、境界知能をその延长と考えるならば、ギフテッドだって同根といえないでしょうか。
 この子は滨蚕が高いから、ひといちばい繊细な子だから集団に驯染めないのだ、発达障害と一绪にするなというのは、私に言わせれば「贔屓(ひいき)の引き倒し」です。妙な持ち上げ方は子どものためになりませんし、発达障害の间に线を引こうとするのは、発达障害の当事者にスティグマをもたらしかねません。
そもそも発达障害とは、知能、社会性、行动制御など社会で生きていくための力が、その子の年齢に期待されるレベルまで育っていない状态のこと。知能は高くても、子どもばかりの大きな集団の中で生活するための知恵や柔软性が身についていなければ、学校生活で苦労するのは无理もない话なのです。
もちろん、その集団のあり方やそこで要求される「マナー」については、一人ひとりの子どもに目配りをしながら见直していく必要があります。発达障害の近縁に现れた子どもたちは、その「问题提起行动」によって「なんとかしてよ、いつまでグズグズしているの!」と大人たちに问题を突きつけているようにも思えます。